メインメニュー
 摺り漆(拭き漆)

  漆は人を魅了する力のある不思議な素材です。もともと漆の木の樹液なので木との相性がよいのは自然なことですが、見ていて吸い込まれるような深い光沢を出すことで、塗った素材の表情を豊かなものにしてくれます。漆の木の生育と樹液の使用に適した気候の日本では、乳白色の漆を塗り重ねると、湿気にも熱にも酸・アルカリにも強くなり、防腐・防虫効果が生まれることを古代の人も気が付いていたようで、縄文時代の遺跡から漆塗りの出土品が発掘されています。数千年という付き合いの長さにも驚きますが、漆のことをジャパンと呼ぶほど、この国で漆塗り技法は装飾仕上げに独自の進化を遂げ、様々な表現が今に伝わっています。日本橋三越本店で毎年開かれる日本伝統工芸展では、創意にあふれ手間を掛けることをいとわない作業の賜物が並び、現代漆芸の多様な世界を見て触れることができます。ただ、華燭な雰囲気に包まれた展覧会の会場を後にする時、陶芸・染織と比べて日本の伝統技法の漆芸が、日常生活から縁遠いものになっていることに寂しさを感じるのも事実です。




写真① 密封された桶から生漆をヘラで掻き採る
  
  お椀や重箱さえプラスチック製のものに取って代わられる今日、建築仕上げ用塗料としての漆の領域は、ほぼ完全にウレタンに席巻されてしまいました。文化財も手がける塗装業者によれば、天然漆を使うのは最終仕上げ工程のみで、下地からの重ね塗りはウレタンを代用するそうです。漆は紫外線によって劣化するし工費も時間も掛かるので、某国宝建築は最終仕上げもウレタンで仕上げたという話しまで聞きます。東大寺大仏殿をはじめとして、地震対策の名の下に国中の文化財で鉄骨補強の作業が進んでいる時代です。木材の仕上げが漆からウレタンに変わった程度の問題は、誰も気がつかないで済んでしまう事柄なのかも知れませんが、本物のみが出せる質感に触れる機会が失われることは後世の人にとっても大きな問題なのです。

 しかし、身の回りウレタンばかりとなっても、ウレタンと漆の仕上がりの差は歴然としています。見た目で分からなくても触るとはっきり違いを感じることができます。設計した住宅の柱や床板に自ら参加して漆塗りの作業をした経験が数回ありますが、3回程度の塗り工程で仕上げたとしても、木目がはっきり浮き出た深みのある表情がでるものです。特に、広葉樹のケヤキやクリは木目がはっきりしているので、漆を塗って仕上げた良さが分かりやすい材です。クリの大黒柱に拭き漆を施すことで数段格があがるほど立派に変身し、周囲の空間に豊穣感が漂うから不思議です。たとえ全治3週間の漆かぶれになってもやめられません。

 さて、本来の摺り漆(拭き漆)は、生漆を木地に摺り込み、余分な漆を和紙など拭き取る作業を7~8回繰り返して行い、薄く均一な塗膜を作る木地を生かした技法です。艶と共に木目も美しさがはっきり出てきます。乾燥した気候の関東では馴染みが薄いのですが、湿気が高い北陸や関西地方では室内の柱・梁や板を拭き漆塗りで仕上げることが普通に行われているそうです。湿度が高くないと漆は乾かないので、漆塗りの作業環境は、湿度が60%~80%、温度が20度~30度であることが大事なことです。乾くというのは漆の水分が飛んでいくことではなく、漆に含まれる酵素と漆の成分のウルシオールが反応して酸化させることで成分が固まっていく状態をいい、実際に漆器の乾燥工程では湿気の高い「回転風呂」に製品を入れて行うそうです。




写真② ヘラで生漆を材に刷り込む




写真③ 摺り込んだ漆を紙で拭き取る

  今回、都内のある新築住宅において、尺角のケヤキとクリの柱をそれぞれ2本ずつ用いる設計となり、熱心な建て主により特にケヤキはいい材料が揃いました。さらに、柱材を拭き漆で仕上げる提案がまとまり、いろいろな人のご縁があって、石川県輪島で輪島塗を仕事にしている現職の塗師に仕事を依頼することができました。梅雨時の7月上旬、埼玉県所沢市の担当大工加工場において、尺角6m材ケヤキ2本、同クリ2本、ケヤキ厚板2枚の拭き漆塗り作業を実行しました。雨風が掛からないように素屋根を掛けた作業場を設け、最初の5回塗りの作業が途切れなく進むように、4本の柱を地上約1mの高さに間隔を置いて配置するところまでは大工衆が協力して段取りました。

 いよいよ、輪島塗の職人二人による一週間の作業がスタートです。 使用した漆は、岩手県浄法寺産の生漆です。 作業の手順は次のように行われました。

 ① 漆の喰い付きを良くするために、500番の紙ヤスリを当てて下地処理を行います。
 ② 材の色付けと下地処理の目的で、薄めた柿渋を全面に塗ります。
 ③ ヘラや刷毛を使って生漆を材に摺り込みます。
 ④ 追っかけて、漆の厚みが一定になるように専用の紙で拭き取ります。
 ⑤ 生漆の摺り込みと拭き取りの作業を一日一回、計5回繰り返します。




写真④ 5回塗りの漆塗りの表面と木地の違い




写真⑤ 板に生漆をヘラで刷り込む
 
塗り回数を重ねる度に、あめ色に透き通る漆の表情に深みが増してくるのが良くわかります。刷り込んだら、すぐに拭き取るという作業の繰り返しなので一見簡単そうです。誘われて、ヘラで刷り込む作業を体験させてもらいました。素性がいいとおだてられ、いい気分にしてもらいましたが、均一に塗り、斑なく拭き取る作業は根気が要るもので、息の合ったベテランでないとうまく仕上がらないことは、容易に想像できました。




 直射光が当たる部分は、塗った生漆の中の水分が気泡となり、木の表面に小さいあぶくのようにいくつも出てきます。すぐに拭きとってしまわないと、後では処理できないものだそうです。気温も湿度と風も光も影響する、デリケートな材料です。5回塗りを終了した後、乾燥させて組み上げて荒壁を付けた後に、最終仕上げ塗りの作業を2回行うことにしています。次回の作業は2009年の3月ごろになりそうです。




写真⑥ ケヤキの木目がはっきりと浮き出ます