折々の風景




   ~穂高のアカマツ物語~

 我々日本人は、年の初めには門松を立てて祝うように、昔から常葉木の松に対して特別な思いを持って接してきたようです。能舞台の正面奥の鏡板には老松が描かれ、白砂青松・谷川の松など襖絵に松は欠かせない題材でした。東京国立博物館の国宝室で毎年一月に公開される長谷川等伯の「松林図」は、正面に置かれたベンチに座って二時間じっと見ていても飽きないほど不思議な力を持っています。また、松竹梅は物の格つけにもよく使われ、旅館で松の間、料亭で松膳、幼稚園で松組など、松はいつも最上級の印です。

 
 松の仲間には、木肌の赤いアカマツ、黒いクロマツ、さらにヒメコマツなどあり、身近な日当たりの良い平地や山地に生えて成長も早く、最大直径60~80cm、高さ30m以上の巨木になります。
 建築用材として、柱・梁・敷居・鴨居・床板・家具材など使われ、特に曲がったマツ材は、粘りがあって曲げに強いため、日本建築の屋根を支える小屋梁になくてはならない木材でした。 近くの民家園に行けば、薄暗い土間の上部に、数段に渡って井桁に組んだ黒く煤けたマツ梁を見ることができます。一度出かけてみてください。
  


 ところがこれほど身近な存在であったマツですが、最近の木造建築ではとても影が薄いのです。というより、一部の地方を除いて、アカマツの曲がり木(アカマツ太鼓梁)が使われることが全く無くなっている状況です。
 理由は、三つ。少し古い話ですが、1985年のプラザ合意による円高ドル安容認以来、直径1m長さ20m以上の米マツが輸入され、木造住宅の梁材は全て長方形断面の平角材となり、梁背・長さ共に何でもありの状況が、今日まで続いていること。
 次に、日本国内では、現在東北地方まで北上しているマツくい虫によるマツ枯れ被害の拡大です。マツノザイセンチュウとマツノマダラカミキリは、枯らし屋と運び屋という役割を分業して共生的関係を結んでいる憎いやつですが、どうも根本原因は山の管理をなおざりにしてきた人間側にあるようなのです。各地で対策が始まっていますが、現在の大断面のマツ材の主産地は、福島県と岩手県などの東北地方です。
 三つ目は、着工数の90%以上で行われているといわれるプレカット加工です。墨掛けから刻みまで一連の加工ロボットが働く工場では、曲がったマツ材は機械に通せないので、効率優先の業界では国産のマツ材は材料の範疇から除外されているといった感じです。







 さらに、マツ材は白太部分が多いため、一年を通じて伐採に適した切り旬は木が水を上げない11月から1月までの3ヶ月間のみであり、伐採したらすぐに皮を剥いて屋根の下で乾燥させないと、テッポウムシが入り込んで材になりません。値段が安い割には管理に手間が掛かるため、今この国できちんとマツ材を建築用材として管理している製材所はほんのわずかとも聞いています。
 しかし、ほとんど全ての建築材料が工業製品でまかなえる時代にあって、自然の曲がり木の作り出す室内空間は、独特の雰囲気があります。構造強度の話だけなら、スギの平角材でも断面を大きくして梁材に使えば問題はないのですが、マツの太鼓梁が数本あるだけで、室内が和んでくるから不思議です。この材の魅力がわかると、マツの太鼓梁との付き合いはこれからも末永く続きそうです。
 では、住宅の設計を依頼された敷地内に、数十本のアカマツが自生していて、敷地内の立ち木の伐採・伐根をしなければ建築用地が生まれない時、設計者としてそこに生えている立ち木とどう向き合うか。実際に、当サイトの仕事のコーナーで紹介中の安曇野市・山の家の仕事で、始めに直面した問題でした。
 
  安曇野市の常念岳の麓の山林には、裸地から一斉に生えてきたと思われるほど、アカマツばかりの林が多く、ほとんど手入れはされていません。当地で、別荘開発の際に伐採されたマツは、薪にもならないので細かく砕かれて山に投げられます。当然、マツを製材して建築用材に当てようという発想は皆無だそうです。伐採の打ち合わせの際に、敷地内のマツを製材して乾燥させて計画中の住宅に使いたいので、地元で相手をしてくれる製材業者はいないだろかと伐採業者に話したときの、驚きと怪訝そうな顔。一方、自然素材や環境問題に理解が深い建て主の方は、目前にある立ち木を建築用材として再びこの場所に戻して使いたいという取り組みに、面白いのでぜひ進めてほしいという反応。地産地消も循環型社会の実現も、時代の理念として反対する者はいないとしても、目の前のマツの立ち木を実際にものにする仕組みは、今考えても安直な解決方法が見つからない問題です。
 
 使うという方針を決めて、建て主の了解を取り付けてからは、必ずできると信じて人の協力を仰ぐ作業の連続でした。まず、伐採業者には30近くあったアカマツを根元から5mに揃えて切り、丸太を下の道路に積み上げてもらう作業を依頼。2003年の冬の段階では、担当する大工さんも未定の状況でしたが、とりあえず、チーム仲間である埼玉県飯能市の岡部材木店・岡部馨氏に話しをしました。大ばか者との評価はお互い様なのですが、岡部馨氏は福島県からマツ丸太を仕入れて太鼓梁に仕立てて売るのを仕事にしている立場です。長野のマツを山から切り出して埼玉で乾燥させて再び長野で使うという話しは、馬鹿らしすぎて面白いとあっさり協力関係が成立。誰が丸太を運ぶかという問題も、仲間の山田運輸の山田社長が担当してくれ、2003年12月18日早朝、同社の運転手・後藤さんにトラックに乗せてもらい、丸太を引き取りに山に向かう。前日の雪のために麓でチェーンを付け、最後の坂はバックで何とかたどり着き、無事28本の丸太を荷台に積み終え一段落。作業後、建て主の計らいで、そばと熱燗のカジカ酒を堪能。翌日、材は岡部材木店の土場に並びました。
 2004年冬から、岡部材木店で皮むき後タイコに製材された材は、桟木を入れて積み上げ自然乾燥期間に入ります。生木の水分を発散させ、重ねて材の重みを加えることで、生木の内部応力をゆっくりと抜いて材を安定させる大事な時間です。建て主の一人のSさんが、小笠原諸島で一年間診療に当たることが決まり、着工が一年延びたおかげで、材としての乾燥期間は十分とれました。




 


 
 2005年夏、墨掛け刻みから上棟までの木工事を担当することになった埼玉県熊谷市の国分工務店に、スギやクリなどの材料と共に穂高のアカマツが運ばれました。28本のマツ材の多くを、ベランダを支える持ち出し梁として利用する設計を進めてきましたが、樹齢が40~60年のやや細い材なので乾燥による曲がりとねじれも結構ひどく現れています。マツ材の扱いに慣れた荒木棟梁を頭とする大工チームにとっても厄介な材です。手刻みを終え手鉋を掛けられた材は白くてとても上品です。腐食防止のために、3倍に薄めた柿渋を全てのマツ材に塗っていきます。加工はこれで終了です。






 2006年4月中旬、建て方作業のためにマツを含む全ての材が安曇野市の現場に運ばれました。伐採から2年半ぶりに、穂高の山のアカマツが立派な梁材に姿を変えて戻ってきました。標高1200m傾斜30度で現場は、眺めはいいが落ちたら大怪我です。ゆっくり、じっくり材を確認しながら組み上げていきます。尺角の柱と並ぶとやや細いようにも見えますが、18本の曲がったマツ材がそろって突き出している絵はある意味壮観です。残りのマツ材も2階の床を支える床梁材として、無事納まりました。思い出深い上棟式となりました。

 土壁用の竹小舞が掻かれて荒壁土が付けられ、床板が張られると、室内のマツ梁も建物の中での存在がはっきりしてきます。窓が付けられて、焼き杉板の外壁が張られると、ベランダを支えるマツ材を下から見ると、一本一本の個性の違いがしっかりと確認できるようになります。山に生えている時には、自然の中なのでマツ山を構成する一本としか見ませんが、通直な建築用材の中に組み込まれたマツの曲がり木は、カーブの仕方の違いで一本づつを見分けることができる存在へと変わっていきます。
 お彼岸も近い2007年9月中旬に、一期工事の終了を祝った小宴に招かれた翌朝、快晴の朝日が下からアカマツの梁一本一本を照らしていました。無謀な話しに快く協力してくれた仲間のおかげで、4年前敷地内に生えていたアカマツの立ち木に対して、設計者としての一つの回答ができました。この家は、間違いなく世界で一つだけの家です。その場所で重ねられた時の重みを、はじめから背負って生まれたのだから、きっと幸せな家になるはずです。