折々の風景




   ~豊饒の白神山地① 橅~

 梅雨真っ盛りの7月はじめ、週末に白神山地のブナ林を歩いた。東アジアを代表する自然遺産としてその普遍的な価値が認められ、法隆寺や姫路城とともに日本で初めて世界遺産に指定された地域というくらいの知識しかなかったが、いつかは見て触れてみたいと考えていた場所である。
 
 
 朝8時羽田発秋田空港行きの飛行機に乗り、9時に秋田に着くやいなバスで秋田県を北上した。東京は雨模様であったが、秋田・青森地方は前日の雨も上がり、朝から快晴であった。運がいい。車が能代市に入ると秋田県側の白神の山塊が前面に広がってくる。だが遠景はどこにでもありそうな雑木の低山だ。世界遺産というブランドの印象が強いせいか、間近で見る目的地の景色があまりに普通なので、ほんとうにここが? どうして?という疑問がわく。

  白神山地は、青森県と秋田県の西部県境地域に位置している。一日目は、世界遺産登録区域に隣接する青森県の津軽国定公園十二湖廻りが目的地だ。穏やかで美しい日本海を左手に見ながら走り、五能線十二湖駅を過ぎてすぐに山側に入ると、ブナ林に囲まれた名のある湖沼が点在している。白神のブナ林を散策することが目的のツアーなので、すぐに地元津軽育ちの年配のガイドに付いて歩き始めた。
 最初に気が付いたのは、一本一本の木が大きいこと、そして種類の多いことである。いきなり湖畔のサワグルミの大木数本に出会う。当事務所のテーブルにも使っているカツラがある。硬いのでクサビや栓に使うイタヤカエデがある。ホオノキもトチノキもコナラもミズナラもある。しかも、どれも目周りの直径が60cm以上、高さ20m以上ある巨木である。銘木店でテーブル板として馴染みの材であるが、生の大木との触れ合いは旧知の友に出会う感覚に近く、嬉しくなり幹を撫でてみる。
 
 
ブナ林というだけあり、若木から老木までのブナが見られる。幹は灰色の地に白の斑点模様で、コケが付いている木も多い。薄緑の葉が日の光に透けて林間はかなり明るく、風が肌を冷やしてくれる。藪の中の獣道のようなところを進んでいくが、落ち葉が積もってできた道はフカフカして気持ちがいい。

 ブナの幹にはクマが残した爪の痕がよく見つかる。足元に落ちているブナの実は、脂分が多く栗や栃の実のようにタンニンを含まないのでクマの大好物であるという。
 樹齢200年生の大木は、ドラム缶5本分もの水を蓄えているらしい。樹齢400年の老木は、水気が多いという特性ゆえに中から朽ちていずれ倒れていく。また、日の差す林間の足元には、実生の苗木も多く見られた。
 この中から森の樹幹を制するまでの大木に成長するのは、150年以上の間さまざまな好条件に預かって個体だけだという。

 
 山を知り尽くしているガイドから受ける説明は、動植物の名前の説明ばかりでなく、役に立つ知恵が多い。マタタビの白い葉の下の花はうっとりする香り、クロモジの小枝を折ってみれば山椒とミントを合わせた爽やかな香りがした。モミジイチゴという木苺の熟した実を食べると、甘酢っぱい。春はコゴミ、ゼンマイ、モミジガサ、オオバギボウシなどの山菜と木の芽、秋は、ナメコ、マイタケ、ナラタケなど、兄弟にも場所を教えないキノコ採りの喜びがあること。ササの葉には殺菌作用があるので食物をくるむのに使っていること。反対にトリカブトは、葉も茎も根も毒を持つので決して口にしてはいけないなど、その場その場で立ち止まって始まる解説は、山の生活で身に着けた内容ばかりで興味深い。

 

  わずか3時間の行程であったが、五感で感じる山の豊かさを体はもう覚えてしまったようだ。おそらく、季節ごとに自然の恵みに与えてくれる豪雪地帯のブナ林は、他にも方々に残っているはずである。そんな日本のブナ林で最大級の規模、世界的にもまれな広さで残された森が、白神山地である。外からは計り知れない、山が本来持っている「普通の豊かさ」がここには広大に残っているようだ。 つづく。