2009年 折々の風景




   ~中部北陸の旅② 白川郷・荻町合掌造り集落~

 高速道路網の発達は都市と山間部の時間的距離を短縮する一方で、国中から秘境と呼ばれてきた場所をなくしてきた。長野県松本市から岐阜県高山市までは約2時間、高山市から白川郷までは約1時間で行ける。白川郷からさらに石川県金沢市までも1時間あれば着いてしまう。便利になったものである。

 荻町合掌造り集落の庄川対岸に設けられたパーキングには観光バスが何台も出入りし、雪が降っていても世界文化遺産に人は集まる。20cm程度は積もった雪のせいであろう、山に囲まれたモノトーンの集落は水墨画のようでもある。どの家も低い軒下沿いに雪囲いが設けられ、大小の正三角形に近い急勾配の切り妻屋根が、庄川に沿ってみんな同じ方向を向いている。どこか日本離れした景観である。山際の人気のない通りから見る集落はひっそりと美しく、確かに懐かしいという気持ちを抱かせる。







 飛騨白川郷に残る合掌造りの価値を最初に認め、世界に伝えたのがドイツ人の建築家ブルーノ・タウトであることは良く知られている。今から70年前の1935年に刊行された『日本美の再発見』という論文の中で、伊勢神宮と桂離宮を永遠の美に達した日本建築の世界的奇跡と評価し、白川郷の合掌造り民家を、「構造が合理的で論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である」と書いている。(岩波新書・『日本美の再発見』より引用)。
 三角形に組んだ合掌材で草屋根を支える形式は全国に見られるものであるが、白川郷の合掌造りは切り妻屋根の縦の方向の風圧や地震に対して、巨大な筋違い材で補強してある点が近代西洋人には合理的に見えたということであろう。白川郷の合掌造りは、養蚕に必要な広い空間を小屋裏に設けるために発達したものである。その後の民家建築の研究によれば、特異に見える筋違い材は、寄棟屋根の隅棟下の隅又首(さす)材が切妻屋根の中に残った結果であり、筋交いが初めから考えられたのではないらしいが、今後に引き継げる優れた構法である。

 ありがたいことに、荻町集落には住みながらも内部を見学させてくれる民家が数件ある。長瀬家と神田家を見た。室内は洞窟の中のように暗いが、囲炉裏の火には救われる暖かさと人を引き寄せる力がある。さすがに世界遺産である。韓国語、中国語が聞かれ、ツアーガイドがフランス語で解説している。蚕を育てるための巨大な小屋裏空間は一体構造で、各層には竹製スノコが敷いて一部に人が通るための板を並べてあり、三層、四層の最上部まで登ってみることができる。暗い小屋裏は、板張りの壁の隅間から外の光が漏れてくる。最上部の小さな窓から眺める民家は、大地に生えてきたキノコのようだ。







 茅葺屋根の裏側から見る構造体は、生きている生物体の内臓のようで、どことなくなまめかしい。チョウナではつり出した角材や丸太を縄で縛りつけ、ネソと呼んでいる生木の枝を曲げて縦横の部材を結束している。合掌材の内側にはオオハガイと呼ぶ斜めの巨大な筋交いが縛られ、コハガイと呼ぶ小筋交いも合掌材の間に固定されている。黒い丸太と曲げられた枝を縛る縄は、まるで骨と筋肉と血管のようだ。重い屋根を支えている合掌材の下端は鉛筆にように削られて、ウスバリと呼ぶ梁に刺して縄で縛ってあるだけだが、重さを下の柱に伝えるが、風や地震で生じる力を伝えることはない構造体として完成している。生活と技術と自然が一体となっている家には、外観も骨組みも迫力がある。
 白川郷の茅葺屋根の葺き替え工事が村中総出で行われている様子はよく話題になり、ボランティアの応援もあって今後も定期的に続けられそうである。合掌造りの家は、民宿・食事どころ・土産物店などに活用されながら、田圃で米づくりも行われている。自然と一体になったままの姿を保って生き続ける白川郷荻街集落の存在は、都会に住む者にはある意味羨望の対象でもある。日本の住まいの「暗い・寒い・汚い・不便」を改善してきた先人の努力を認めながらも、また、そうした住宅を設計する仕事についている現実であるのに、荻町集落はそのままの姿で維持してほしいと虫のいい願いを抱いてしまう。養蚕をやめても生き続ける民家に宿泊する山暮らしの経験は、きっと元気を与えてくれそうに思った。