2009年 折々の風景




   ~中部北陸の旅① 飛騨高山・日下部民芸館~

 大晦日をまたいで、飛騨高山・白川郷・金沢・能登輪島を訪ねる家族旅行に出かけた。移動も宿の手配も食事もすべてお任せの旅行会社の企画は、何も考える必要がないお気楽さがいい。電車とバスに乗っていれば、予定の時間に目的地に連れて行ってくれて、添乗員やバスガイドさんが解説してくれる。地図を開いて現在地を確認することさえしない。毎日駅弁を選ぶ楽しみにひたり、冬の味覚のズワイカニを堪能した。今日生きててよかったねと、束の間の極楽を味わうことができた。

 






 二十数年前に娘を背負って雪の高山の街を歩いた経験があるが、今回は快晴であった。バスの中で配られた観光地図を眺めた。日本の優れた民家のベストテンに入るといわれる日下部民芸館(旧日下部家住宅)・吉島家住宅の写真を思い出し、細部の納まりを想像した。山や海への旅なら、自然の美しさを家族全員で共有できるだろう。ただ、まれにしかないほど魅力的な建築が現れた時、家族のことはほとんど忘れ、個の世界に入り専門家の目で見入ってしまう。こればかりは設計屋の性でどうしようもない。

 吉島家住宅は火曜日休館で閉まっていたため、すぐ隣の日下部民芸館に入った。深い軒下をくぐり引き戸を開け、「ろじ」と呼ばれる広い土間に入った。劇的という言葉は、この場所に身を置いた時の為にあるのではないかと思うほど、130年の時を経て黒光りする木組みの豊かな空間が広がっている。太いウシ梁・規則正しく配置された小屋梁と小屋束が、土間と座敷の50数坪の吹き抜け空間を、緊張感のある空間美に仕立てている。妻壁上部から差し込む冬の低い光は、ベンガラに煤を混ぜてこげ茶色に塗った最上級の檜と松材を横から照らし、一瞬木造であることを忘れシャープな鉄骨造を連想させる。草葺き民家の重い屋根を支えるために組まれた太い小屋組は鈍重な印象のものが多いが、日下部家は時代を超えて新鮮さを失わない軽快な架構に昇華している。

 徳川幕府直轄の天領であった高山で、幕府の御用商人として栄えた日下部家のこの家は、現在の法律で言えば店舗併用住宅である。宮川に沿って南北に計画された通りに面した格子構えの内側には、出店や勘定場が並ぶ。ろじの周囲を「おいえ」と呼ばれる畳敷きの上がり間や囲炉裏のある「だいどころ」や納戸が取り囲み、北側の中庭に面して主人の部屋の「かずき」と仏間、西側の庭に面して本座敷がある。店舗と住居部分は東と北側が二階建てとなって、ろじの吹き抜け空間を囲み、南と西側上部に設けられた高窓から広い土間の採光をとる設計である。木造二階建て延べ床面積318坪の他に、二棟の文庫蔵を備えた大規模建築は、どこを見ても最高に贅を尽くし、完璧な技で納められている。







 建築歴史家の伊藤ていじの解説によると、飛騨の匠の歴史は奈良時代までさかのぼる事ができるが、大部分の大工たちは、高山のなかに育ち、高山のなかで技術も磨き、高山の中でさまざまな民家をつくりあげてきたという。1875年(明治8年)の大火の後、4年後1879年(明治12年)に完成したこの建物は、当時名工と呼ばれた川尻治助によって、江戸時代の建築様式そのままに建てられたもので、江戸時代民家の頂点、高山民家の集大成と評価されている。
文明開化の洋館建設が各地で始められた時代に、紛れもなく江戸時代建築の日下部家住宅が出来上がった理由を、高山という地の閉鎖性だけで説明するのは無理があるように思う。代官所の規制がなくなり、檜材が自由に使え、軒先の高さや二階の制限も撤廃された時、それでも檜材を黒く塗って材種の識別を隠し、軒を低くして旧来の町並みの形に合わせて計画したのは、高山に伝わる独自の美意識がそうさせたと考えるほうが自然だろう。


 民芸館として開放されている日下部家住宅も、吉島家住宅も築後100年以上を経て美しさを失ってはいない。ただ、この民家の美は漫然と残ってきたものではなく、日々磨き上げられた結果であることを、ここを訪れた誰もが感じるはずである。これほど美しく建てることは容易ではない。同時に、より魅力的に創り上げて維持していくことが、どれだけ大変なことであるかを教えてくれる貴重な遺産である。