折々の風景




   ~林芙美子記念館~

 6月・みなつき 初夏の風 梅雨空の湿り気 アジサイの色 ニセアカシアの花の香り ホタルブクロの形 
 白く光るマタタビの葉 梅の実とシソの葉と氷砂糖とホワイトリカー。
 「五月雨の降りのこしてや光堂」芭蕉。 岩手・宮城内陸地震による人と建物の被害が気になる。

 月中の雨の一日、新宿区中井にある林芙美子記念館を訪ねた。妙正寺川の北側にあるこの界隈は空襲にあわず、山の手の邸宅の雰囲気を今に伝える閑静な住宅地である。一の坂、二の坂、三の坂、四の坂と、山手通りからの順番が通りの名前になっているのは坂の多い東京でも珍しく、車の通れない四の坂の階段に面して、旧林芙美子邸はある。この家は1941年(昭和16年)に竣工し、林芙美子は亡くなる1951年までここで生活と仕事を続けたが、現在は門・塀を含めた300坪の家屋敷を新宿区が管理し、ほとんど当時のままの状態で公開されている。
 









 軒先は手が届くほど低く、屋根の瓦が雨に濡れて空と木々の緑を映し出して光っている。瓦や石などのように水を吸う材料は、濡れた状態で眺めてこそ素材の味わいがわかるもので、平屋建ての屋根形の良さを瓦のしっとりとした質感が引き立てている。生活棟とアトリエ棟の間の中庭から空を見上げる時、イロハモミジの葉の透けた黄緑と黒く光る濡れた幹や瓦の対比がいい。300坪の敷地に、二棟合わせても60坪ほどの住宅のまわりを竹や雑木が取り囲み、「愛らしい美しい家」は景色の一部に溶け込んでいる。林芙美子が一番大事にしたという「風の道」も計画どおりに役割を果たして、きっとほどほどに涼しい生活を満喫できたことだろう。

 室内は、材料を吟味し手間を掛けて丁寧に造られている。家を建てるについての参考書を200冊近く求めて、自分自身で設計図を作り、「建築家の山口文象氏と一年あまり練るだけ練った後、大工を探し、材木を求めて各地を回った結果出来あがった」家である。プランも各部のバランスもデイテールも良く考えられ、威張ったところを感じさせない。天井や内法の高さを低く抑え、柱や枠などに細い部材を用い、煩雑に見える造作の線を消すために壁で塗りこめて造られた、軽快な日本家屋といえる。

  ただし、見れば見るほどただの家ではない。『放浪記』を読めば、氏が職を転々として飢えと貧困にあえぎながらも、向上心を失うことなく強く生きた女性であったことはわかる。「地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ。」と怒鳴る一方で、「さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。」とすばやく立ち直る聡明な女性だ。きっと、隅々に渡って設計者や大工に注文を付け、思い通りに実行させたのだろう。赤いインド更紗を張らせた押入れ襖は今も美しいが、建て主の性格を良く表しているようで面白い。夫の緑敏氏は、「この家は私の生きている間は決して手を加えたり、変えたりしてはいけない。」と言って、芙美子亡き後約40年間もその旧宅を守り続け大事にしたという。苦労しながら、時に楽しみながら、こんな家に仕立てた設計者と大工の力量にも、率直に敬意を表したい。






 当時の平均をはるかに超えた良質な住宅ではあるが、この家に触れていると安らぎを覚えるのは、当時のこざっぱりとした生活空間にそのまま触れることができるからだろう。家の中心は六畳の茶の間である。中廊下を挟んで、台所と浴室と洗面所と便所が繋がるこぢんまりとした間取りには無駄がない。座卓と火鉢が置かれた寝室・書斎・客間・小間などの畳の間には、床の間が設けられ軸や季節の花が飾られている。夫と子供と母親の四人で生活する家としては十分な広さであるが、食事も団欒もみんなが茶の間に寄り添っての生活が目に浮かび、当時の日本人のつつましい生活を想像させてくれる。

 竣工当初から数えれば、70年近い年月を経ている。長寿命の家造りには、壊れ難い仕組みも大事であるが、壊したくないほど愛おしく思われる家がどのようにして造られ、どうして残ることができたかを考えさせられる家である。建築論と生活論を語る空間として、多くの方々に見て触れてほしいと思う。